金閣寺が建設された歴史の裏側ではさまざまな色濃き歴史の背景があります。
京都の地には、鎌倉時代の元仁元年(1224年)に藤原公経(西園寺公経)が西園寺を建立し、あわせて山荘を営んでいた。これらは公経の子孫である西園寺家が代々所有していた。
同氏は代々朝廷と鎌倉幕府との連絡役である関東申次を務めていたが、幕府滅亡直後に当主・西園寺公宗が後醍醐天皇を西園寺に招待して暗殺しようと企てたという容疑がかけられて処刑されてしまい、西園寺家の膨大な所領と資産は没収されてしまう。
このため、西園寺も次第に修理が及ばず荒れていった。
1397年(応永4年)、足利義満が河内国の領地と交換に西園寺を譲り受け、改築と新築によって一新した。この義満の北山山荘【現在の金閣(舎利殿)】は当時「北山殿」、または「北山第」と呼ばれた。
邸宅とは言え、その規模は御所に匹敵し、政治中枢の全てが集約された。義満は金閣寺の中で政治を行っていたとされている。
その後、義満は征夷大将軍を子の義持に譲ったが、実権は手放さず、北山殿にあって政務を見た。義満の死後、義持によって北山殿は舎利殿を残して解体され、禅寺とされ鹿苑寺と名付けられた。夢窓疎石を勧請開山(名目上の開山)としている。
応仁の乱では、西軍の陣となり建築物の多くが焼失した。